俺は人より10年遅れで生きている。周回遅れながらも、少しずつ生きやすくなるアイテムを得てきた。でも、それを得るために犠牲を払ったことも否めない。スポーツの大舞台、国政を左右する要職、大企業の存亡を任せられる社長などのダイナミズムを、一庶民が味わうのは皆無だ。どんな会社でもホントに有能な人は10%くらいだという。それで残りの90%は不用かというと、それはまた違う。企業の歯車というと聞こえは悪いけど、歯車がないと円滑に物事は回らない。大抵の仕事は代替がきく。どの世界でも基本的に、いなくなって困る人はいない。誰かが、そのポジションに治まるか、もしくは新しい人が出てくる。齢をとり、「無用の用」という言葉の意味を実感できるようになった。俺は野球の送りバントがキライなのだが、それは野球ファンとしての意見であって、闘ってるチームからみれば、必要なことなのだ。俺は、これからずっと、静観を望みながらも、悩み転がりながら生きていくことだろう。仲間のいない俺は折れそうな心を哲学書武装するしかないかも。様々なコンプレックスや過去が俺を時々、圧し潰そうと暴れる。睡眠薬がなくなった今、酒、哲学書鳥居みゆきで紛らわせている現状だ。哲学は答えのないことを考える机上の空論。別に哲学を学ばなくても人は生きていける。だから哲学と戯れることは贅沢なこととも言える。まさに無用の用だ。心が強い人は別に哲学を学ばなくても、その人自身に人生哲学が備わっている。だから社会不適合者やハートが弱い人、何度も挫折してきた人、人生や生きる意味を考える人には哲学の意味がある。俺も昔は、哲学とは、やたら難解な語句を駆使して、ゴチャゴチャ言ってて面白くないと思っていた。俺自身、今は、わかりづらかったり、読みづらいとこは正直、流し読みすることも少なくない。どうせすべてを理解するのはムリだし、その必要もないだろう。人生に過度の期待をすることは愚かなことを俺は体得した。無常の世界で一瞬の喜びがあればいい。いつもハッピーであるほうがおかしいんだ。物欲、名誉欲が旺盛な人はそれでいいと思う。そういう人を否定する気はない。そういう人は心がタフな人だから。ただ、心がタフな人が自分を基準にして、繊細で心がもろい人を断罪するのは許せない。人は自分の意思で生まれてきたわけでない。また、いずれ死ぬのに生きないといけない。人が動物と違うのは、理性と言葉を有するところだ。それゆえ快楽も享受できるが、傷ついたり絶望したりする。本能による行動より、まず人は頭で考える。それも大半な人はネガティブに。人生に対する理想が高すぎると現状との乖離が大きくなり絶望する。イチロー、中田、松坂などの話は我々凡人には役に立たない。会社の中途半端なお偉いさんが、イチローなどの話を朝礼で言いそうだよね。ハートが弱く、社会で生きづらい、ドロップアウト達は哲学に選ばれた逆エリートとも言える。現在が幸せな人に哲学はいらない。