プラダの靴をネダる女に正拳突き
「天才」の定義は人それぞれだろう。
たとえば凡人が長時間努力しないとできないことや努力しても不可能なことをできる人。
時速160kmのボールを投げることができる人は選ばれた人だ。
しかし時速160kmのボールを投げれてもノーコンで四球連発なら天才とは呼ばれない。
天才は「結果を出している人」でもある。
俺が魅かれる「悲運の天才」、「不遇の天才」という使い方は間違った使い方かもしれない。
Jユースや奨励会にいままで何人の「天才」と呼ばれた若者がいたことか。
凡人からみたら無名で活躍しなくてもプロ野球選手になった時点で天才と感じる人もいるだろう。
また人は「天才」と呼ばれる人には破天荒な行動がつきものだ。
長嶋茂雄、勝新太郎、横山やすし、マラドーナ、ガロア・・・・。
その破天荒なエピソードも語り部の願望で脚色や話を盛ってる場合も少なくない。
受け手はそのエピソードに触れ天才幻想に拍車をかける。
俺が常々思うのは天才を評する人は天才を見極める才能が本当にあるのかということだ。
スポーツはアスリートのプレイでまだ素人でもスゲーと感じることはできる。
しかしピカソの絵を観たり、マリアカラスの歌を聴いて「天才」と判断を下すのは、よほどの才能がない限りムリだろう。
つまり「天才にしか天才はわからない」ということだ。
尾崎豊の歌詞にインスパイアされて校舎のガラスを割っても尾崎にはなれない。
芸人がやっさんに憧れて悪業三昧しても干されるかクビになるだけだ。
天才達が無意識に「〜せざるをえない」という行動を凡人が意識的に「〜しよう」としてもムリがある。
中野裕太 その1
その2
その3
中野裕太が天才か否かは俺はわからん。
フェイクだとしても道重さゆみ同様、キャラ設定で頑固に押し通すならそれもありだ。
バッシングされてこそ(内容によるが)芸能人として存在価値がある。
でも博覧強記の宮崎哲弥と23歳の若者が神や哲学の話ができるだけでも立派な芸だと思う。
彼が天才でないとしても。